映画『ばら科たんぽぽ』『閉所嗜好症』(国立映画アーカイブ「小口詩子/和田淳子プログラム」)〜裸体と機能不全

    国立映画アーカイブで「小口詩子/和田淳子プログラム」を観てきた。企画上映トータル57プログラムのうちのひとつ。私が鑑賞した回は上映後に小口詩子監督のトークイベントがあり、興味深いお話を聞くことができた。小口さんのお話についても後述する。

www.nfaj.go.jp

 

 この「小口詩子/和田淳子プログラム」では小口詩子監督作品3本(『小口詩子のおでかけ日記』(1988)・『ばら科たんぽぽ』(1990)・『眠る花』(1991))、和田淳子監督作品2本(『閉所嗜好症』(1993)・『桃色ベビーオイル』(1995))の計5本が上映された。そのなかでもとりわけ良いですね〜好きですと思った『ばら科たんぽぽ』と、示唆的で考えたいなと思った『閉所恐怖症』の2本について書き残しておきたい。

 ちなみにこのプログラムは4/27(水)18:30にも上映される。チケットは前売指定券のみ。詳しくはリンク先(チケット情報のセクションに飛ぶはず)参照。

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 ネタバレに関して特に配慮せず書いたため、ここに記しておく

 

小口詩子『ばら科たんぽぽ』(1990)(9分・16mm・カラー)〜嘲りではなく解放

 まず小口監督の作品から。国立映画アーカイブのサイトでは「コマ撮りを取り入れた「無理矢理アニメ」と称する手法により、遊び心あふれる人形ごっこを模してセクシュアリティの混沌を描き出す」*1と紹介されている。

 話の中心、というか衝撃の中心にあるのはやはり、二体の人形による男性器の大きさの競い合いだろう。リカちゃん人形のような人形の姉妹が、股の部分に男性器に見立てたものをくっつけて、その大きさを競う様子が、パッパッと切り替わるモンタージュと軽妙で間の抜けたやり取りによって描かれる。「男性器に見立てたもの」というのは、競い合いが進むにつれ次々に変化してゆく。記憶が定かでないが、覚えているものを並べると、きのこの山(お菓子)→きのこ→バナナ、といったふうに、大きさがエスカレートしている。本作について紹介されているサイト*2で画像を見ると、少しイメージしやすいのではないかと思う(あらすじも載っているので確認したが、たしかにそういう話だったかもしれないと思う反面、いやそういう話だったの? という思う部分もある。ここで話の全体について触れることはしない)。

 男性器の競い合いは、姉妹が互いに装着している男性器の大きさを羨ましがったり、翻って相手の大きさを認めてみたり、さらに自分のものを大きくしようとする相手を茶化したり……といったコミュニケーションによって進む。この応酬は、自分の求めるものを持っている相手に対して、羨むと同時に「いや? あなたが優れているのはわかっていますけどね?」と余裕なフリをしてみせて、さらに成長しようとする試みをからかう防衛的反応と言い換えられるかもしれない。しかしそう言い切ってしまうと、この競争の清々しいおかしみの印象が抜け落ちてしまうように思う。この競争はまったく殺伐としておらず、常にパロディとして提示されていた。それは、人形遊びの枠組みを巧みに利用することで、何重にもずらされたジェンダーに起因しているように思う。

 ずらされたジェンダー、というのは、女の子の人形が男性器的な装着物を付けているという既に挙げた要素からも明らかだが、それだけではない。姉の声をあてているのは男性、妹の声をあてているのは女性のように聞こえ、どちらも裏声を使用していた*3。そして台詞は女言葉(「〜じゃないかしら」「〜だと思うわ」など)であった。

 超ざっくり整理しておこう。

 

の子の人形+性器の装着物

裏声の言葉

 

 裏声自体はジェンダーニュートラルなものだと思うが、女言葉と組み合わさると、女なるものを達成する手段としての印象を受ける。ここにおいて裏声は女性的であるといえるし、女であることを達成するために裏声を使い続けることによって逆説的に女ではないことが証明され続けるとも捉えられる。つまりその声が指し示すジェンダーが曖昧なのだ。

 これが映像と組み合わさるとさらに混乱に陥る。裏声によって対象化された女言葉で、男性器の競い合いが演じられるが、しかし、その男性器を誇示するのは女の子の人形なのだ。人形の身体、人形の演技の内容、言葉、声といったそれぞれの要素が、ひとつのジェンダーに収斂しない。というか、ジェンダーを確定させる要素として機能しない*4

 ここで小口監督のお話を紹介したい。こうしたカオスなイメージはどのように浮かんだか? という質問に対し、次のようなことをお話された。本作を制作した当時は今より男性優位が根強い時代であったこと、男性どうしが張り合っているのをどこかくだらないと思って見ていたこと、監督自身ふだんはおとなしい「女の子」をやっていて作品のなかでは好き勝手に表現したこと。加えて、本作は女の子に受け、男性からはグロテスクで忌避感を覚えるといった評価をされたということ。最後に、女の子に解放感を与える作品になったのではないかという見解を示された*5

 このご回答を映画本編に照らし合わせるとたいへん興味深い。監督のお話は、男性を皮肉ったから女の子に受けたのだという解釈もできそう(実際その側面もあるだろう)だが、映画本編で提示されたのはそのような単純な二元論に回収できるものではない。監督の仰った「解放感」がキーになってくるのだと思う。女の子に受けた大きな要因は、男がアホなものとして描かれていることではない(そもそも人形たちは男とも女とも確定できない)。そうではなくて、固く結びついているように思える諸要素をガチャガチャに組み替えることで、ジェンダーは構築されたものでしかないのだということを暴いてくれたことに因るのではないか。単に男を嘲笑って楽しんだのではなくて、割り当てられた性に閉じ込められる息苦しさそのものの解体可能性を見出して解放感を覚えたのではなかったか。

 

和田淳子『閉所嗜好症』(1993)(8分・DCP・カラー)〜自分ではかる

 次に和田監督作品。「閉じ込めたい/閉じ込められたいという欲望をめぐる自問自答をセルフヌードを交えて展開する実験映画」*6として紹介されている。

 体の横幅より数㎝ほど広い幅の黒い箱に体育座りをした裸体の女性(和田監督)は、さまざまな種類のものさしを乳首や腹や下腹部など自分の身体に押しつける。同時に映像外の声は「はかりたい」「閉じ込めたい」「閉じ込められたい」などと頻りに囁く。これらは、身体の物質としての性質を強調する手法といえよう。女性の裸体に嫌でもくっついてくるエロという意味を剥ぎ取る試みのひとつとして受け取った。この身体にエロいもなにもない、ただの物質でしかないよと。

 ただ、こういうふうに、「この身体は物質である」と言ったときに、身体に付与されてきた意味とともに、固有の人格を剥ぎ取ってしまう危険性もあることに注意が必要だろう。数値やラベルに還元可能なものとして身体を把握することは、容易に暴力に結びつく。

 しかし本作ではそうした危うい身体観の提示は回避していたように思う。そもそもこれはセルフヌードであり、多種のものさしを用いていたにもかかわらず正確な計測はなされていなかったからである。

 セルフヌードであるということはつまり、自分の裸体を撮影し、編集をするこの過程において、被写体となった身体の見せ方をコントロールするのは和田監督自身であるということだ。少なくとも制作段階においては、他者からの一方的かつ恣意的な意味づけはされにくいことが推測される。

 また、正確な計測ではないという点について。身体を計測するといったときに思い浮かべるのは、次のような状況だろう。背筋をまっすぐ伸ばして身長を測る、体重計に乗り暫し静止して数値が出るのを待つ、あるいは、緩くもきつくもならないようにメジャーをウエストに巻きつけるといった状況。本作でなされたのは、そうした客観的な指標で身体を把握するための計測ではない。メジャーを使うにしても、ふわっと巻きつけるだけで、特にメジャーを水平に保とうとする様子もないため、どこを測ろうとしているのかよくわからない。半透明で渦巻き状の薄い物体を胸に押し当てるとき、いったいその行為によってなにが達成されるのかわからない。しかし同時に、映像外の声は「はかりたい」と囁き続ける。こうした、ものさし自体も測り方も曖昧な「計測」の様子がモンタージュされて示される。「--㎝でした」といった報告も時折挿入されるが、それが正確な数値ではないことは明らかだ。

 ここで「はかりたい」とは、計測の結果客観的な数値を得たいという欲望を意味していない。自分の身体を「計測」する行為そのものを欲望しているのだろう。

 身体の、物質としての性質を強調しつつ、その方法は他者に共有することができない。自分にしか了解されない(自分にもよくわかっていないかもしれない)基準によって身体を提示し、他者からの価値判断も把握も拒んだのだといえる。

 

別にまとめでもないが、さいごに

 ひとついえるのは、いえるのは、というか、感じたのは、1990年代にこの映画たちが存在したことへの感慨。小口監督のお話にもあったが、これを見た観客たちが感じたかもしれない、名づけることはできないがなにか解放された気持ちを想像して、感慨深く思う。これを見てあなたはどう感じましたか? と聞きに行きたい。当時の観客に。おわり。

 

付記:映画の内容や監督のお話について、間違って記憶している可能性があります。もし気づいた方がいらっしゃったら、攻撃的でないやり方で教えていただけたら幸いです。

 

関連して知りたい考えたいことたち、あるいは高確率で放置するものたちメモ

女言葉→永井愛、中村桃子

人形劇→なにかしら見る

笑いの種類→

セルフヌードのジレンマ(結局エロとしか捉えられない可能性、しかしべつにすべて意図どおりに受け取ることがあるべき姿ではないしな、むしろ画一的な読みを強制することなんてすべきでない、しかしポルノとして消費されることへの怒りというか絶望もあり……ぐるぐる)

物質性とは→

男性性(広……)→Routledge international handbook of masculinity studies

*1:

https://www.nfaj.go.jp/exhibition/japanese1990s202201/#ex-58237

*2:

http://tuki1.jp/archive/15jul/15jul04/

*3:声の高低や質から役者のジェンダーを確定させることは不可能だしその必要もない。しかし、姉は男性の声に聞こえ、妹は女性の声に聞こえ、そしてどちらも裏声を使っていたことが個人的な鑑賞体験として重要に思える要素であったため、そのように明記した。

*4:映像メディアにおける視覚と聴覚のずれという観点は、石田美紀『アニメと声優のメディア史』(2020年,青弓社)で得た。

*5:ここでの「女の子」「男性」表記は監督の言葉遣いに倣った。

*6:

https://www.nfaj.go.jp/exhibition/japanese1990s202201/#ex-58237